吉江さん
「ぜひ きいてみたいものですね」
テンポも音色もまったく一定の、柔らかな声でその人は言った。
新宿駅の近くにあるパソコン修理店の吉江さん。
修理後の支払い中の、たわいない世間話だ。
(数日前、相棒のノートパソコンの様子がおかしくなってから、ネット上を探して即日修理してもらえるお店を見つけた)
私は今、ひょんなことからベースという楽器を練習している。
その日もベースを持ち歩いていた。修理の待ち時間に練習できると思ったからだ。
計画通り3時間の待ち時間をカラオケでの練習に費やし、電話の合図で店に戻る。
店に着くと吉江さんと私のパソコンが待っていて、修理後の状態を確認してくださいと言われる。
壊れた画面はしっかりと直っていて、手垢がついていないぶん前よりも綺麗だ。
「ギターですか?」
ふいに吉江さんが聞いた。
「あ、ベースです」
「ベースですか」
「ベースをやられるんですね」
吉江さんの話し方は独特だ。
静かで、暖かくて、今いる空間を少しだけ狭く感じさせる。
「私も昔はギターをやっていたんですけどね」
吉江さんは昔ギターをやっていたらしい。
けれど、なにか無理をし続けたせいで指の神経を痛め、ギターを辞めた。
らしい。
重要であろう部分が私には分からない単語だったので、情景は思い浮かばなかった。
吉江さんが見せてくれた、中指と薬指が閉じ切らない左手だけが、事実だった。
「残念ですね」
と私は言った。
とだけしか言えなかった。
少しの間。
「ぜひ きいてみたいものですね」
と彼は言った。
私のベースのことだろうか。
「もしこの近くに寄ることがあったら、チケットでも…」
私のことをバンドマンだと思っているのだろう。
吉江さんは、きっと、バンドマンだったのだろう。
そして、きっと、目の前の「ベースを弾く人」を通して、過去の記憶を見ている。
マスク越しの、ビニールシート越しの距離感では、すべてがぼやけてしまう。
けれど、最後まで穏やかに、柔らかに話す言葉の端に、ままならない何かが滲んでいるような気がしてならなかった。
帰路に着く。
吉江さんは、どんな風にギターを弾くのだろう。
いつか、誰かが、またその音を聴けるのだろうか。